申命記30:15−20/ヤコブ1:12−18/マタイ4:1−11/詩編91:1−16
今引用しましたマタイ4章3節ですが、前使っていた口語訳聖書ではこう訳してありました。「すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。」
日本語訳の違いでわたしが今回ちょっと問題を感じたのは「神の子なら」という箇所です。口語訳では今引用したように「もしあなたが神の子であるなら」と訳しています。新約聖書の底本となるギリシャ語聖書では「エイ ヒュイオス エイ トゥ テオゥ」となっていて「ei」という言葉がちゃんと入っているのです。これは「もし〜なら」という意味です。しかも2度入っているわけですから、それをちゃんと含めば「もしあなたがもし神の子であるなら」となるかもしれません。わたしにとっては「もし」が強調されていると感るのです。そしてこの「もし」ということが、極めてクセモノなのです。
「それでもクリスチャンか」と言われたことはありますか。わたしはあります。一度や二度ではないかも知れません。そして結構その言葉はわたしにとってボクシングのボディブローのように、じわじわと心を蝕んできます。「それでも」と言われている事柄それ自体はわたしがやっていること、やっちまったことですから反論出来ないわけです。事実その事柄があったわけで。それに対して今日の箇所にある慇懃無礼な悪魔の言い方で言えば「もしあなたがもしクリスチャンであるなら…」と言われているわけです。そう考えるとこの「もし」ということが、極めてクセモノとして響いてくるのです。
イエスは空腹でした。断食、それも40日40夜──これもまた口語訳の翻訳です。因みにGoogleで「40日40夜とは何日」と調べるとAIは「「40日40夜」は、聖書に登場するイエスが断食をした期間を指し、40日40夜(合計80日)を意味します。」と答えました。そうですかねぇ。わたしは40日のことだと信じていました。だからでしょうか、新共同訳では「四十日間、昼も夜も」(2)と訳し直されています。──というわたしなどには気の遠くなるような期間、断食していたのです。そして当然イエスであっても「空腹を覚えられた。」(同)。そのイエスのいわば弱みにつけ込むように悪魔が囁いたのです。「もしあなたがもし神の子であるなら」。
わたしが「もしあなたがもしクリスチャンであるなら…」と言われたとしたら、そしてもしこの石がパンに変わったとしたら、「わたしは間違いなくクリスチャンだ」と胸を張れたかもしれない。それでわたしの正しさが証明されるのだとしたら、むしろ喜んでやってみせるのではないか。しかしイエスはその方法で「神の子」である証拠を示そうとは思われなかったということでしょう。そうではなく「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(4)と、その誘いを拒絶されたのです。
マタイ福音書は14章で洗礼者ヨハネが殺されたことを書き、それを聞いたイエスは群衆から離れようとなさったと書いています。「しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ」(13-14)、夕暮れまで休まず多くの病人を癒します。そしてその後弟子たちとのやりとりがあって5千人に食べ物を与える奇跡が引き起こされます。ただ単に食べ物が配られるのではなく「深く憐れみ」と動機が記されているのです。
弟子でさえ「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」(17)と言う。わざわざ「しか」です。だからわたしなどは、どうやってこのような奇跡が引き起こされたのかに興味が行ってしまいます。そして「自分の食べ物を隠していた人が隠しきれなくなって差し出したのではないか」と、ありそうな話を考えついて納得しようとします。
しかし、マタイはここに明確に「大勢の群衆を見て深く憐れみ」というイエスの心情を書いているのです。イエスのその心がこの奇跡を引き起こしたということです。
この物語を読むときに、イエスが悪魔に答えたあの言葉はまさにその通りだったということがわかりました。「人はパンだけで生きるものではない。」(4)。もちろん空腹をパンによって満たされれば、5千人も安心するし嬉しくもなりましょう。でも食べてしまってもしばらくしたらまた空腹になるのです。残念ながら人は生きている以上そういう存在です。霞を食べては生きられないし、爪楊枝をしゃぶっても空腹感が増すだけです。
しかし、「心」に触れたなら、その思いは増幅されて行きます。イエスの心に触れて、それがわたしのために傾けられたことを知ったなら、わたしもきっとその心に応えようとするだろう。全くイエスのマネは出来なくとも、少なくともイエスが示された道を自分も歩み出そうと思うに違いないのです。
5千人が食べて満足したのは、食べるモノが増える奇跡の物語ではなく、パンと一緒にイエスの憐れみの心を大勢の人がいただいた奇跡なのだということです。「パンだけで生きるものではない」とは、文字通り「パンだけ」ではないということでしょう。それだけでなく、そこにイエスの憐れみの心もある。驚くべき業だとか、他を圧倒する権威だとか、富や戦力という力ではなく、愛の心とパンとが必要なのだ。そういうことをわたしたちに示しているのではないかと思わされたのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。わたしたちはこの地上で、ともに生きるように召されました。わたしたちの主が驚くべき業や権威や富や軍事力ではなく、憐れみの心でもってわたしたちに接してくださったように、わたしたちもまた人の間にあってともに生きるために知恵を尽くす者でありますように。神さまどうぞ導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。